勝手にこだわっていても、誰もわかってくれない

ワシ、長らくこのブログで使うのを避けていたコトバがいくつかあります。

それぞれ、理由があります。

たとえば、本質とか真理とかいうコトバ

とても深く意味が重いコトバだけに、軽々に使うことができませんでした。
軽々しく

そういったことは本質ではないんですね

なんて言ってる人を見ると、

じゃこの人は、何が本質かが、わかっているのかね?

なんて、穿った目で見ていました。

「ものごとの本質」なんて、死ぬまでの間にわかるかわからないかというギリギリのラインのもの。

神や仏じゃあるまいし。

と思っていましたからね。

たとえば、能力とかいうコトバ

ワシが会社員時代、大嫌いな先輩社員がいました。

上司や客先にはへつらい、後輩や外注先には威張る、という、マンガやアニメにでも出てきそうなキャラクターです。

そんな先輩社員が、ワシを含めた後輩社員によく言っていたコトバがあります。

お前らには能力が無い。

当時のワシも20代前半で、チャラチャラしてたと思いますが、そんな当時のワシでさえ

「こいつだけは、ホンモノのバカだ」

と思っていました。

その先輩社員本人も、当時20代半ば。
自分の勝手な基準による「能力がある、ない」で人を判断する人柄を、心底から軽蔑していました。

そんな理由で、人に対する「能力」を結論としてものごとを論じることがキライになりました。

ワシが、それぞれのコトバを使うのを避けていたのには、こんな事情があったんです。

でもね…。

そんなコダワリ、だれも知ったことではない

ってことですよ。

「本質」というコトバをつかったほうが伝わりやすいのであれば、使えばいい。

「能力」というコトバをつかったほうがわかりやすいのであれば、使えばいいんです。

今でも「人に能力がある/ない」を理由にして結論づける考え方は、キライですけどね。

でも「能力というコトバそのもの」に責任は無いですよね。

今回は、ワシの勝手な「こだわり」についてお伝えしましたが、こういった「人には関係の無いこだわり」って、誰にでもあると思うんですよ。

独りよがりな「こだわり」によって、わかりにくくなっていないか?

「こだわり」って、本来「独りよがりなモノ」だと思います。

だからこその「こだわり」とも言えるんじゃないでしょうか。

コダワリを全部捨てよう!などという単純なことを言いたいわけではありません。

でも、「自分のこだわりは、誰のため?」ということも、考えてみたいんですよね。

大切にしたいのはアイデンティティ

自分が生きていくうえで譲れないこともあると思います。

「コレを捨てたら、もはや自分ではない」というようなコダワリもあると思います。

そこまでこだわるのであれば、もはやそれは「コダワリ」などという浅いモノではなく、「その人がその人である由縁」つまり「アイデンティティ」と言ってもいいでしょうね。

でも、単なる「自分のちょっとしたコダワリ」であるのなら、捨ててしまったほうがわかりやすくなることもあるような気がします。

本当に譲れないコダワリなんて、ひとつかふたつ。

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【そのコダワリは、人から正体を隠すための単なる「お面」なのかも】

それ以外は、人に正体がバレルのを恐れてかぶっている「仮面」みたいなモノかもしれませんね~。

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